会社に入った瞬間、空気が妙にざわついていた。
経理フロアの前を通ると、三人の視線が同時にこちらを向く。
いつものからかう笑み。でも今日は、目の奥が違った。
何かを知っている。そんな嫌な予感が背中を伝う。
僕と目が合った瞬間、瑠衣さんの唇がほんの少しだけ動いた。
「おはよう」
それだけの言葉なのに、胸の奥がきゅっと縮む。
◆
時計は11時45分。
また呼び出しのメッセージが届いた。
場所はおなじみになってしまった、いつもの資料室。
行きたくない、でも、行かないという選択肢はない。
カーテンの隙間から差す光が、机の上のスマホを照らしている。
そこに、瑠衣さんのスマホが置かれている。
「座って」
そう言われて、僕は言われるまま椅子に腰を下ろした。
かがむ瞬間、シャツの隙間からブラが見えない様に、胸に手を当てる仕草が癖になってしまった。
三人は何も言わない。ただ、スマホの画面を操作して――再生ボタンを押す。
スマホから、掠れた喘ぎが漏れる。
「千尋ちゃん……もっと……!」
「あっ……だめ、もう……千尋ちゃん……っ!」
!?
頭の中が真っ白になった。
「ちょ、ちょっと!録音していたんですか?昨日の僕の……オ、オナ……ニー……」
「レンくん。ちゃんと約束守れて偉いね」
真帆さんが腕を組んで、笑顔で語りかけた。
「レンさん、だいぶ我慢してたんですね!千尋ちゃんの名前、いっぱい口に出してましたよ」
茜ちゃんが横から笑う。
「だ、だって……射精ができなくて……一週間、乳首を弄り続けたから……」
「ふふ……気持ちよかったんだね、レンくん」
瑠衣さんが穏やかに笑った。
◆
瑠衣さんが画面を止め、ゆっくりと僕を見る。
「これ、レンくんにも送ってあげるね。茜、送ってあげて」
「わかりました」
画面を操作する指先が軽く動き、“シュッ”っと送信音が響いた。
――しかし、僕のスマホには一向に着信音が鳴らない。
嫌な汗が背中を伝う。
その瞬間、茜の画面に見えた宛先には『小山 千尋』という文字。
呼吸が止まる。
頭の中が一瞬で真っ白になり、心臓が荒く跳ねる。
「は!?、ちょ、ちょっと待って!今、送ったのって!」
声が震えて、うまく言葉にならない。
茜がそのまま答える。
「レンさんがさっきから大きな声を出すから、びっくりして送信先を間違えちゃいましたよ~」
「茜、ダメじゃない。それじゃあレンくんが、後輩の女の子をオカズにして、乳首を弄られることまで想像してイっちゃった変態な先輩ってバレちゃうじゃない」
三人の視線が絡む。
もう、何も言えなかった。
◆
午後、デスクに戻っても、心ここにあらずだった。
キーボードを打つ指が震え、汗でキーが滑る。
画面の文字が霞んで、頭の中は千尋の顔で埋め尽くされていた。
そして。
「……レンさん」
振り返った先に、千尋が立っていた。
いつもの柔らかな表情とは違い、その口元は少しだけ引きつっている。
「茜ちゃんから……音声データが届いたんですけど」
彼女はスマホを胸の前で握りしめる。
僕がいたたまれなくなり目を伏せた。
「この声……レンさん、ですよね?」
喉が乾き、呼吸が浅くなる。
「ち、違……っ」と言いかけた声が、空気に吸い込まれて消える。
千尋は唇を噛み、困ったように眉を寄せた。
頬がわずかに赤く染まっている。
嫌悪――そう見えた。
けれど、その奥に、一瞬だけ別の色がのぞいた。
視線を逸らしながら、千尋は小さく息を呑んだ。
「あれって……その……私で……いや、やっぱりいいです」
言葉の途中で声が震える。
立ち去る彼女の背中が、妙に大きく見えた。
僕の心は羞恥と恐怖がぐちゃぐちゃに混ざって、胸の奥が焼けるように熱い。
千尋を思い浮かべて“してしまった”昨晩のことが、本人に知られるなんて。
全身が凍るほど恥ずかしいのに、なぜか、喉の奥がじんわり熱を帯びていく。
逃げたいのに、逃げられない。
心臓が痛いほど高鳴って、呼吸が浅くなる。
どうしてこんなにも苦しいのに、どこかで“本人に知られた”ことに興奮を覚えてしまった……
◆
夕方。
再び、資料室へ呼び出された。
扉を閉めると同時に、瑠衣さんが僕の前に立つ。
「ねぇ、さっき……千尋ちゃん、まんざらでもなかったみたいだね」
囁き声が、皮膚を這う。
「返信、来てましたよ。“びっくりしたけど……少し可愛かったです”って」
一瞬、心臓が止まった。
羞恥と恐怖と、そしてほんのわずかな安堵が混じり合う。
“可愛い”――その言葉だけが、脳裏に焼きついた。
「ほらね。ちゃんと伝わるんだよ、レンくんが“頑張ってる”こと」
瑠衣さんが小さく笑った。真帆さんと茜ちゃんも微笑んで、軽く賞賛を送る。
瑠衣さんが僕の肩を軽く叩く。
「ねぇ、レンくん。せっかくだし、次は千尋ちゃんの前で“可愛いとこ”見せてあげようか」
「私たちの言う通りにすれば、きっとうまくいくよ」
「私、こういう時のメッセージ考えるの得意なんです。任せて下さい!」
拒否しなきゃいけないのに、首が動かない。
喉が乾いて、言葉が出ない。
その代わりに、頬がわずかに動いて――
ほんの少しだけ、頷いてしまった。
三人が微笑む。
その瞬間、僕の中で何かがゆっくりと崩れた。
【14章へつづく…】
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