【コラム】具象表現が奪うもの
Added 2024-04-06 13:24:13 +0000 UTC吾輩が好きな絵描きは誰か?と聞かれると、オディロン・ルドンであるとかピエト・モンドリアンあたりが浮かぶ。「え?そっち?」感が我ながらある。
漫画家で言うと竜神沼の頃(要は若い頃の)の石ノ森章太郎とか。
石ノ森については特に思う所があって、吾輩的には後期石ノ森の絵はいまいち好きになれない。なんだか「マトモなオトナの絵」になった感があって、それが退屈なのだ。
竜神沼の頃の、ちっぽけな石ノ森の肉体の内側で途方もない怪物が必死に暴れまわっているかのような悲痛さが、後期石ノ森の“小慣れた”原稿からは感じられない。それを「成熟」「大先生」と世には言うのかもしれないが、吾輩個人は賛同しない。無論、当時の漫画界における流行画風の変遷もあろう。
特に竜神沼の140コマ目は個人的にこれまで読んできた漫画の中で一番好きなコマで、ああいう痛々しいまでの剃刀のような切れ味が、老成して以降の石ノ森にはないと吾輩は思う。
そして吾輩は、「竜神沼のような作品」を産む事がプロアマ問わず表現者の宿命であり宿望なのではないか?と、思わずにはいられない。
そしてこれは何も石ノ森個人の運命の話ではなくて、絵描き……ひいては人類存在全てに言える運命なのではないかと思う。
吾輩は、石ノ森の「喪失」は即ち全ての絵描き、全ての人類が陥っている喪失だと思う。無論、吾輩自身も。
そして冒頭に戻るが、オディロン・ルドンなどはかなり高い次元でそうした喪失に必死に抗って見せた絵描きの一角だと思う。モンドリアンはルドンとは異なるアプローチで喪失に抗ったと思う。なので吾輩は両者が好きなのである。(というか本来、芸術家はこの喪失に抗う事が「業務内容」なのだと思う。)
――――なんてウダウダ弄するまでもなく、要は、『今日の芸術』で岡本太郎が散々に論理的に論じた事なのだけども。
◆
即ち本文の論点は「具象表現が奪うもの」と換言してもいいと思う。
もっと突き詰めれば老成・成熟が奪うもの、都市化・文明化・機械化が奪うものと言い換えてもいい(上で「人類存在そのものの問題」と言ったのはそのためである)。
言い忘れたけども、吾輩は古代の遺物(土器とか壁画とか)も好きだし、今日における手作りの器なんかも好きで、陶器作家から対面で直接購入した事もある。要は、そういう事である(どういう事だよ)。
つまり、呪力・霊力の喪失である。霊的なものへのまなざしの喪失である。あるいは「そういったものへの許容力」の喪失である。意識高い系の言い方をすれば、ネガティブ・ケイパビリティの喪失である(ちょっと違うか?)。
「なぜこれが起きるのか?」については方々で散々に言われている事なので本文では論じない。例えばなんでもかんでも数値で管理したがる管理社会云々とか学校教育云々とか正しい正解に固執する云々とか。
◆
要は、1970年代ぐらいから日本なり先進諸国なりでは呪力への拒否感・嫌悪が増大していって、人々が率先して自発的に(実際には半ば強制だったのだろうけども)呪力を捨ててきたという歴史があるのだと思う(特に日本においては全共闘の挫折や敢えて付け加えるなら三島由紀夫の挫折も大きかったろう)。
石ノ森章太郎にしても、彼は竜神沼の頃のままの自分では「自分で自分を管理できない」と気づき、その後の作風の変遷があったのだと個人的には睨んでいる。「管理しやすい自分(管理しやすい作風)」を得る事で、彼は管理社会の立派な一員となったのであろう。
故に、呪力を喪失した。
◆
問題なのは、ここで吾輩が呪力と適当に表現している概念は恐らくイブン・ハルドゥーンがかつてアサビーヤ(共同体意識)と呼んだそれとほぼ同一であろうという点に集約される。
呪力の喪失は即アサビーヤの喪失を意味し、それは結果的には共同体の崩壊、文明の崩壊、文化の地盤沈下(魂の死)を意味する。
その具体的な道程は、エドワード・ギボンが『ローマ帝国衰亡史』という文学を通じて人類存在そのものをローマ帝国に仮託して描き切って見せた通りである。
つまり吾輩がここまで文化全体や絵における呪力の喪失を嘆くのは……石ノ森に起きた喪失を嘆くのは、それがつまり「ローマ帝国の衰亡」に通じるためである。
◆
そんなわけで、吾輩的にはこの呪力や霊性を守護するための孤独な闘争を今からでも始めて、継続していけたらいいな~と思うし、願わくばいつまでも竜神沼の頃の石ノ森のような破滅的な色気を持ち続けたいと思うのである(そんな事やったら往年のロック歌手のように夭折するのがオチかもしれないが)。
そしてきっと、そのためには具象表現は邪魔になり得るのだろう。
そもそもが、人類に与えられたリソースが有限である以上は、「何かを得れば何かを失う」のは絶対原則なのである。万能の成長、万能の伸長など、ありはしない。
何かを得れば相応のものを失う。
何かを失えば相応のものを得る。
吾輩はいい加減前者にウンザリしてきたので、都市での暮らしにウンザリしてきたので、もう森に還りたい。森に還って森の妖精や精霊たちと戯れていたい。
しかし悲しいかな、今や都市は全てを覆いつくした。もはや還るべき森などないのである。地平まで広がる人、人、人。
極東の民は虚無にあえぐし、マグリブ(極西)の民もまた虚無にあえいでいる。
ヒッピーだのニューエイジだのが挫折した要因が、ここにある。
ニルヴァーナ(カート・コバーン)のように抗っても仕方がないのである。
オルタナ、プログレッシブ、アングラ、…アヴァンギャルド。全てが下らない。
だからきっと大切なのは、もはや存在しない(というより、恐らくハナから存在しない)「還るべき森」への郷愁に囚われる事ではない。
路傍の雑草や街路樹の中からでも妖精や精霊を見出せる第六感と、かすかに浮かぶ一等星に想いを馳せる乙女心と、どんな環境でも夢の翼を失わない度胸とド根性なのだと思う。
――――という、それだけのお話。