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ぴんく☆ふぇっへ凛
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8月

やっぱりどうも液タブから生まれる線がしっくりこないのでアナログ原画に回帰。アナログ線は奔放でどう足掻いても不完全なのが好き。 伊藤若冲の水墨画や竹内栖鳳の筆致が好きなのでこの絵もちょい水墨画風。個人的に若冲は世間的に人気の高い極彩色画よりも水墨画の方が好き。 あと液タブはなんだか眼に悪い気がして(尊敬している先達にも液タブで眼がやられた方がいらっしゃいます)、滅茶苦茶画面を凝視しながら作業する自分には液タブよりもアナログの方がカラダにいいかなって感じがします。 最近かなり視力が落ちてて、その辺がちょっと不安。 液晶画面を凝視するのと紙と黒鉛を凝視するのとでは、後者の方がオーガニックで人生スパンでの幸福度が高そうだし。 将来的には彩色すらアナログにしてもいいかもしれません。その場合はスキャンの手間が爆増しますが。 * あと最近は二次エロすらマスプロ化、プロダクション化がトレンドになっていますが(これは恐らく豊かさ故というよりむしろ逆で、世界的な資本主義経済の退潮……つまり経済的・精神的貧困が人々を「安定」「雛型」に狂奔させているのだと思われます。しかしそれは結局は沈みゆくタイタニック号の先端に必死にしがみついているに過ぎないのだと私的には感じられます)、ソレをやってしまうと将来的にはポルノの攻撃性を喪失する事になるため、自分が最後の一人になってでもそういう潮流には逆らっていたいって思いもあります。 (なんか最近の二次エロ界隈って割とガッツリ胡散臭い人達が絡んできてるっていうか、過去に「オタク」「キモオタ」と呼ばれた人達とは「別種」…というかかつての「オタク」達が最も嫌悪し侮蔑していたような人種が入り込んできてる印象を受け、私的にはひどく失望を覚えます。) そのためにはいっそ徹底的にアナーキーを突き詰めるしかないのかもしれません。融和やバランス(本来なら自分が最も重視するもの)を求めていてはある一定の壁を破壊できない気がします。 以前から度々言っているように自分は割とアンチアヴァンギャルドなのですが(好きな映画も『アラビアのロレンス』とか『ベン・ハー』とかであって、『イージーライダー』『タクシードライバー』系の映画は好きじゃない)、どうも時勢が融和という名の妥協に胡坐をかく事を許してくれないような気がします。 作り手が何を作るか?(もっと言えば人はかく生きるべきか?)というのは実は作り手個人の欲求以上に「時代の要請」が多分に絡んでくるわけですが、現代はもうボサッとのんびり(“今この瞬間における”)マスに阿ったクリエイションに浸っている場合ではないのかもしれません。 「誰かがやってくれるだろう」などと考えてボサッとしている内に、不可逆の文化的喪失が発生してしまうような気がします。 誰かがマスプロ化やプロダクション化、分業化、所謂「疎外」の波にNO!を突き付けないといけない事は明らかなのですが、「誰かがやらねば」などというのは作り手は絶対に言ってはならない事であって(もっとも、本来は「万人が作り手」なのですが)、作り手であるなら常に「誰かが」ではなく、「自分がやる」という姿勢で在るべきでしょうし。 その辺もよく考えて、今後は「自分はどうしたいか」というエゴを越えた「この時代に対して自分は何を突き付けるべきか」「人類共同体の歯車としての自分が演じるべき役割は何か」という点をもうちょい真剣に考えていこうと思います。 ビクトールフランクルがロゴセラピーで語ったロゴスと個人の一生の関係であるとか、『ローマ帝国衰亡史』で語られた個人のエゴや欲求を越えて時代の要請に応えざるを得なかった人々(どちらかと言うと静かに学問に打ち込んでいたいタイプなのに時代に押し上げられローマ皇帝として生きざるを得なかったユリアヌスなど)の悲痛だけど気高い背中に想いを馳せるにつけ、時代から目を背け自分のエゴに引きこもり、「自分“が”描きたい絵」に耽溺し狭小な自己実現を図る我が身が愚かしく思えてならない今日この頃です。 もうちょい時代のために死ぬ覚悟を持つべきなのかもしれません。 ――――にしても、自分はどうも「実用品としてのポルノ」というより「哲学としてのポルノ」のために筆を取ってる感がありますね…。 マニアックすぎてその点は申し訳ないです。ここまで語ってきた事は分かる人には分かると思うのですが、それが超少数派である事は私も承知しています。 でも実用品としてのポルノに関しては既に大家が大勢いらっしゃいますし、既に十分すぎる発展を見ている勢力にわざわざ自分が与する必要もないかもしれません。 あっち側はあっち側に任せて、自分は自分が為すべき事に集中しようと思います。

8月 8月 8月

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